l'Odradéque bavard(お喋りなオドラデク)

フランス滞在中の備忘など、さしあたり。

生きた心地――ドゥルーズ『意味の論理学』第22セリーに関する覚え書き(2)

一個の章(セリー)だけ読み返すのではどうしても理解があやふやになってしまう。けっこう自分なりに砕いたつもりだったけど、それでも解りにくい。
というわけで復習も兼ねてもう一度、まとめなおしておきたい。
 
人生を「崩壊の過程」と捉えるということ。それは個々バラバラに見える数々のアクシデントを、ひとつの一貫したプロセスのもとに包摂することを意味している。例えばそれらのアクシデントが生じるこの現実世界とは全く別の次元に、何かある「裂け目」のようなものがあって、それが少しずつ掘り深まってゆくのだと――そして各々のアクシデントはその裂け目のさまざまな「受肉」のあり方なのだと、考えることだ。
しかし、だからなんだというのだろう。「裂け目」ないし「純粋な出来事」などという抽象物をわざわざ設定したのは、騒々しく去来しながら少しずつ人生を蝕む事故事件の群れに、説明可能なまとまった意味を与えるというそれだけのためなのだろうか。だとしたらその仮説は、自分自身は安泰なままあれこれ理論をでっちあげるのを生業とする学者のほかに誰を喜ばせることになるというのか。
 
おそらくドゥルーズは、「裂け目」を単に頭で思考する(「抽象的な思考者」)のでも、それを受肉させ「実現」させてしまう(死、狂気etc.)のでもない途を開きたいのだ。出来事の純粋なままの(受肉しない)実現(「反実現contre-effectuation」)について彼は考えようとしている。そしてこのような反実現の担い手を示すのが、「役者acteur」という形象である――つまり出来事を被るのではなく、演じることができるのでなければならない。
 
アルコール(あるいは薬物)の使用はその可能性である。それらは抽象的なプロセスを辛うじて人称的な経験に結び付けはするが、死や狂気とは異なって、それら「二つの線を致命的な一点で混ぜ合わせてしまう」ことはなく、そこに一定の「時間」を費やすからだ(p.182)。
アルコール中毒の「時間」、それはどのようなものだろうか。
 
ドゥルーズによればアルコール中毒とは快楽の追求ではなく、「現実の硬化induration du présent」という効果effetの追求であるという。「硬い現在dur présent」という表現は、死の出来事が紛れもなく受肉し痛みをもって実現する瞬間を指すために用いられていた。しかし今回の「硬化」という言い方からは、そうした瞬間性よりもむしろ一定の時間幅をもったプロセス、というニュアンスが感じられるように見える。
 
そして事実、ドゥルーズは「致命的な一点」とはならないこの「硬化」において、「ひとは二つの異なる時間を同時に生きる」(p.184)のだと述べている。ひとつは酩酊している今現在、アルコールの効果が実現中の「現在」だ。しかしその現在は、柔らかい腫れものを囲む瘡蓋のように、ある別の瞬間、つまり「素面の生の記憶」を指し示す瞬間を「囲い込んでいる」。囲い込むentourerという言い方に注意しよう。つまり素面の生の瞬間は確かにかつて「現在」であり、そのものとしては「過去」になってしまったのだが「それでもやはり全く別の仕方で、根底的に変容したありさまで、硬化したdurci現在のなかに捉えられて、現存している」のである(p.184)。
 
したがって三つの時間を区別しなければならない――つまり
1.かつて現在であった素面の瞬間そのもの
2.今現在である酩酊の瞬間
3.酩酊の現在と「同時に」生きられる、変容した「素面の生」の記憶
である。そして2と3を同時に生きる中毒者の時間性を、ドゥルーズは「複合過去」という文法カテゴリによって特徴づけることになる。
疲れたので、次回に続く。