l'Odradéque bavard(お喋りなオドラデク)

フランス滞在中の備忘など、さしあたり。

生きた心地――ドゥルーズ『意味の論理学』第22セリーに関する覚え書き(3)

酩酊状態の時間性、というところまで前回は話をした。
 
酔いのさなかにある中毒者は、今まさに酒を飲んでいるこの現在と同時にもうひとつ「他の瞬間」を生きている(ドゥルーズはこれら二つの時間の奇妙な共存を「こわばった肉」(現在)とそれが取り囲む「柔らかなできもの」(他の瞬間)というイメージで鮮やかに表現していた)。
この「他の瞬間」はある過去、既に過ぎ去った「素面の生」を指し示しているのだが、とはいえそれを普通の意味での「記憶」と言って済ますことはできない。ドゥルーズによればその瞬間は(それがかつて現在であったのとは全く別の仕方で)確かに「現存している〔exister〕」のだと言いきっている。
 
もちろん、その瞬間が今はっきりと生きられているのだとしても、それがあるイマジネールな生であることは否定できないだろう。彼は次のように述べている――「他の瞬間というこの柔らかな中心部において、アルコール中毒者は彼の愛の対象、そして「恐怖と共苦の」対象と自らを同一化することができる。しかし他方、彼が望んで体験している現在の瞬間の硬さによって、彼は〔過去の〕現実性から距離を保つことができる」(pp.284-5)。
 
「同一化」というキーワードをドゥルーズは、クライン派精神分析の枠組みで解釈されたフィッツジェラルドの叙述を念頭に置いて用いている。しかしそうした込み入った伏線を充分に解きほぐすことは僕にはとてもできないから、ここでは精神分析のごく初歩的な知識と経験則的理解で間に合わせておきたい(解釈上それほど問題はないと思っている)。
先の引用で言われた「愛」や「恐怖」「共苦」の対象というのは、言うまでもなく中毒者にとって既に失われている(だから彼は飲んでいるのだ)。かつて大量のリビドーを備給していた対象を失った時、ひとは自らがつぎ込んだ心的エネルギーを時間をかけてひとつずつ引き剥がしてゆけねばならない。これがいわゆる「喪の作業」である。ところが喪の病的形態である「メランコリー」を患った者は、その対象を自分自身と「同一化」してしまう。つまり喪失した対象を自分のなかに取り込み、一旦行き場をなくしたリビドーをその内面化された対象に注ぎ込むのである。
 
おそらくドゥルーズの記述しているアルコール中毒は、このような一種の病的な喪であると考えていい。酩酊する中毒者は、失った恋人をファンタズマとして自分の心の中に呼び戻し、慈しむ。しかしそれはもはや私がこの手探りで愛撫する外界の他者ではなく、すべてがまるごと自分の内側に取り込まれているのだから、私とあなたの境界はまもなく消え去り、私は愛しつつ愛されていることになる。
この「融即〔participation〕の瞬間」(p.185)を表現するのが「過去分詞〔participe passé〕」であるとドゥルーズは言う――つまり"aimé"とは、かつて「愛した」事実であるとともにその愛における「愛された」ものでもあるわけだ。
 
ところがこの同一化ないし融即は決して実現しない(「彼は現実性との距離を保つことができる」)。「彼」は「愛された」ものである(il est aimé)ことはできない。彼は現在形において過去の対象であるのではなく、ただそれを「持っているavoir」のである――「現在の瞬間はavoirという動詞のそれであり、他方、全ての存在〔être〕は同時化された他の瞬間のなかで「過ぎ去って」いる」(p.185)。
中毒者が生きる現在と「イマジネールな過去」とのこうした「緊張」、それはしたがって「複合過去」である。即ち、「私は愛した」――"J'ai aimé"。
 
複合過去の同一化は決して現実を覆い隠す妄想に至ることはない。イマジネールな過去は「持つ」べきものとして私の手前にあるのであって、私自身は確かに今ここにいて飲んでいる。そしてその限り、たとえ現在のある瞬間が「水晶や花崗岩」のように「液状化したガラス」の過去を囲い込んでも、その幸せな二重の生の全体がそのまま永久にモニュメント化してしまうことはない。
つまり酩酊のさなかにも地続きの時間が現実に、常に流れ続けているのだ。
そこにこそ死の「硬い現在」と、中毒者における現在の「硬化」との違いがあるのだろう。「〔二重の生の〕この緊張はしかし、更なる別のもののために弛められる。なぜならそれは〔すぐさま〕「私は飲んだ〔j'ai-bu〕」へと生成する複合過去に属しているからだ。現在の瞬間はもはやアルコール効果の瞬間ではなく、効果の結果の瞬間である」(p.185)。
 
「私は飲んだ」――即ち「アルコール中毒抑鬱的局面」については、だいぶん長くなったので次回。