l'Odradéque bavard(お喋りなオドラデク)

フランス滞在中の備忘など、さしあたり。

生きた心地――ドゥルーズ『意味の論理学』第22セリーに関する覚え書き(1)

ドゥルーズの『意味の論理学』を邦訳で読んだとき、飛び抜けて気に入ったのが第22セリーだった。
訳書での表題は忘れたけど元のタイトルは Porcelaine et volcan(陶器と火山)。
このセリーの主役は英国の作家ラウリーとアメリカの作家フィッツジェラルドだけど、どっちもあまり詳しくないのでその辺は触れないでおく。僕にとって最も面白いのは、そこでドゥルーズが展開するalcoolisme、即ち「アル中」についての論 である。
 
まずセリーの冒頭、ドゥルーズフィッツジェラルドの「どんな人生も、もちろん〔bien entendu〕解体の過程である」という命題を掲げる。
数々の「騒々しい偶発事」――戦争や破産、老い、病気、才能の枯渇など――が降りかかる。しかしそれらが(各々に傷跡を残しつつも)バラバラに、ただ通り過ぎてゆくだけだったとしたら、人生全体が「解体の過程」だとは言えないだろう。相次ぐ偶発事が一貫して少しずつ掘り深めてゆくもの、個々の災厄とは全く性質の異なった何かが存在していなければならない。ドゥルーズはそれを「沈黙した裂け目」と呼ぶ。
 
沈黙した裂け目は純粋な出来事とも言われる。「純粋」というのは受肉していないということ、つまり単に言葉の上のものに過ぎないということだ。出来事は定義上、何らか固有の時間的位置をもっていなければならないが、「純粋な」出来事は、時間のあくまで抽象的な直線上にポイントされるに留まる。ところで抽象的に考える限りの時間においては「現在」は存在しえない――各々の瞬間は(したがってそこに定位される出来事は)常に過去と未来に引き裂かれていて決して「ある(現在形)」とは言えないのだ。このような出来事が確固たる「現在」において「実現する」ためには、物理的なモノや身体に「受肉」する必要がある。
 
例として「死」という出来事を考えてみよう。前セリーにおいて、ドゥルーズブランショによる二つの死の区別を自身の議論に組み入れていた。一方には人称的な、つまり死ぬ主体に基礎を持つ「私が死ぬ」という死がある。しかし他方には非人称的で非肉体的な、「雨が降るil pleut」ように「死が降るil meurt」死がある――これが純粋な出来事としての死だ。
後者は「堅固な現在」における前者の人称的な死へと受肉し、実現する。とはいえ死はまさに当の人称自身の消去の経験なのだから、この場合それが実現する現在は、厳密な意味で「私」の経験に属するとは言えない。だから死の実現ないし受肉は基本的に欲求という形をとる――つまり自殺願望とは、それ自体としては掴みえないまま降り続く純粋な死を、全く個人的な行為によって我が身に引き継ごうとする企てなのである。
しかしここにきて、ドゥルーズは立ち止まる。二つの死の本質的な区別がそれでもなお存続すると主張するブランショ(とそれを援用しつつ理論を述べてきた自分自身)に対し、次のように問うのだ。
 

こうした本性上の区別は、抽象的な思考者のためでなければ誰のために存続するのか。〔…〕本性的に異なる二つの〔死の〕過程がある、そうなのかもしれない。だが〔…〕知恵と区別の忠告を与えてしまったら、抽象的な思考者がやることが他に何か残っているだろうか。岸辺に留まったまま、ブスケ疵、フィッツジェラルドとラウリーアルコール中毒ニーチェアルトー狂気について常に語り続けることか? それらの因果関係の専門家になることか? 心打たれた人たちがあんまり身を持ち崩しすぎないよう望むことか?〔…〕あるいは自分もほんのちょっとだけ顔を出して、裂け目を引き延ばすのには十分だがそれを取り返しのつかないほどに深めてしまうことはないという程度に、少しだけアル中になり、少しだけ狂い、なんちゃって自殺者、なんちゃってゲリラ兵になることか? 

(p.183-184)

 
結局、受肉のない純粋な出来事を身を以て経験することなどできないのではないか。決して身を持って経験しないことによって、それは頭のなかで思考されるだけのものなのではないか。しかしだとしたら我々には二つの道しか残されていないのだろうか――「ばかげたridicule」とまで言われる抽象的な思考者に留まるか、出来事を我が身に受肉して完全に死んで(あるいは狂って)しまうかの、どちらかなのだろうか。それでは「どちらを向いても、全てが悲しく見える」(p.184)のではないだろうか。
 
アルコール中毒のなかに、ドゥルーズはおそらくそうした困難への処方箋を期待しているのである。
続く。