l'Odradéque bavard(お喋りなオドラデク)

フランス滞在中の備忘など、さしあたり。

生きた心地――ドゥルーズ『意味の論理学』第22セリーに関する覚え書き(4)

 
アルコール中毒者の「複合過去」、それはかつて失われた対象との同一化を想像的に果たしつつ、しかしあくまでも今ここで独り酔いつつある時間を現実として生きることだ。そして現実の時間は常に流れ続けている。つまりこの二重の生はすぐさま、その全体がひとつの過去になってしまう。
 
「私は飲んだj'ai-bu」――このとき中毒者が過去として「持っているavoir」のは、イマジネールな他の瞬間を囲い込んだままそれ自体過去になってしまった最初の「アルコール効果」である。酔いを自覚した瞬間、私はもはや酔っていない。失われた素面の生も、幸福な同一化として生き直されたかに思われた愛の瞬間も、それを一度は囲い込んだ酩酊の瞬間も、全てが等しく遠ざかってしまった。この「第二の効果においては、現在形の助動詞〔avoir〕は一切の分詞〔participe〕、一切の融即〔participation〕との無限の距離を表現するばかりである。現在の硬化(j'ai)は今や過去の逃走という効果(bu)に関係している」(p.186)。
 
これが「アルコール中毒抑鬱的局面」である。こうした悲劇は何ら偶発的なものではない。中毒者がやがて迎えることになるこの抑鬱、この「砂漠」は、酒を求め始めたそのときから解りきっていた運命なのである。中毒者にとっては未来すら複合的に、即ち「前未来」という形式において経験される――私は飲んでしまっているだろう(J'aurai bu)。
このような予測をする私がそのときはまだ全くの素面であるのか、それとも既に飲んでいながら酔いが醒めてしまった「抑鬱的局面」にあるのか、そこにたいした差はない。いずれにせよ私は現に何かを喪失していて、束の間の融即とそれに続く喪失状態を見越しつつ酒に手を伸ばしている。アルコール中毒の「効果の効果」はこのようにして「死に至るまで続く」のである(p.186)。
 
アルコール中毒とは、絶えず過ぎ去ってゆく過去を絶えず想像的に囲い込み直すために飲み続けることであり、その本質は結局のところ「過去の逃走という効果」にある。そしてドゥルーズによれば、このような絶えざる過去の逃走こそ「崩壊の過程」としての人生そのものの効果(「裂け目」)に他ならない――つまり酒を飲もうが飲むまいが、例えば愛とその喪失、あるいは富とその喪失といった経験はそれ自体、これまでアルコール中毒について述べてきたのと同じプロセスを含んでいるのだ。
愛を例にとってみよう。かつて孤独があり、あるとき誰かに出会い恋に落ちる。しかし彼は自分が愛し/愛されているということを現在形においてありありと確認することができない――彼に言えるのは、ある過去の一時点において自分が確かに愛し愛されていたということだけだ。そして彼はこの過去を現在によって囲い込み、想像的に生き直そうとする(複合過去――「私は愛した」)。愛の経験は決して現在において「実現」することはなく、常に既に過ぎ去ったもののイマジネールな再現として現れる。それは初めから終わりまで失われたままなのである。
 
それゆえアルコール中毒は様々な形で現象する「崩壊の過程」の一事例であるのだが、それでもなおドゥルーズにとって特権的な事例(「範例exemplaire」)であることに変わりはない。「同じタイプのあらゆる出来事がある中で、それでもアルコール中毒が範例的な価値を持っているのは、アルコールが愛であると同時にその喪失であり、金であると同時にその喪失であり、祖国であると同時にその喪失であるからだ。アルコールは崩壊の予定調和的なプロセスにおいて、対象であると同時に対象の喪失であり、かつまたその喪失の法則である」(pp.187-186)
 
アルコール中毒は、愛や富(とその喪失)の経験と横並びに置かれるべきものではなく、それらに対していわば一段メタな次元に位置している。要するに私は既に愛や富を失ってしまったからこそ飲んでいるのだ。しかしアルコールに頼ったところで、それは失われた対象の代りに空虚を満たしてくれるわけではない――酩酊の瞬間はすぐに過ぎ去ってしまうだろう。「対象であると同時に対象の喪失である」とはそういうことだ。アルコールが与えるのは失われた対象の代替物ではなく、その(喪失も含めた)経験そのものの反復である。そのつど様々な対象の喪失に対応しうるアルコールは、それ自体としては、あらゆるものが初めから失われたものとして経験されるという人生の抽象的な形式、「喪失の法則」そのものなのである。
 
しかしこのような反復に何の意味があるのか。結局私は喪失したものを喪失したまま、結果として一層の抑鬱を抱え込んでしまっているのではないのか。愛や富の喪失の後にアルコールにふけることは何よりもマシであるのか――死よりも、とおそらくドゥルーズは言おうとしている。
意外と道のりが長くて申し訳ない。多分次回で最終回。
 
 
 

生きた心地――ドゥルーズ『意味の論理学』第22セリーに関する覚え書き(3)

酩酊状態の時間性、というところまで前回は話をした。
 
酔いのさなかにある中毒者は、今まさに酒を飲んでいるこの現在と同時にもうひとつ「他の瞬間」を生きている(ドゥルーズはこれら二つの時間の奇妙な共存を「こわばった肉」(現在)とそれが取り囲む「柔らかなできもの」(他の瞬間)というイメージで鮮やかに表現していた)。
この「他の瞬間」はある過去、既に過ぎ去った「素面の生」を指し示しているのだが、とはいえそれを普通の意味での「記憶」と言って済ますことはできない。ドゥルーズによればその瞬間は(それがかつて現在であったのとは全く別の仕方で)確かに「現存している〔exister〕」のだと言いきっている。
 
もちろん、その瞬間が今はっきりと生きられているのだとしても、それがあるイマジネールな生であることは否定できないだろう。彼は次のように述べている――「他の瞬間というこの柔らかな中心部において、アルコール中毒者は彼の愛の対象、そして「恐怖と共苦の」対象と自らを同一化することができる。しかし他方、彼が望んで体験している現在の瞬間の硬さによって、彼は〔過去の〕現実性から距離を保つことができる」(pp.284-5)。
 
「同一化」というキーワードをドゥルーズは、クライン派精神分析の枠組みで解釈されたフィッツジェラルドの叙述を念頭に置いて用いている。しかしそうした込み入った伏線を充分に解きほぐすことは僕にはとてもできないから、ここでは精神分析のごく初歩的な知識と経験則的理解で間に合わせておきたい(解釈上それほど問題はないと思っている)。
先の引用で言われた「愛」や「恐怖」「共苦」の対象というのは、言うまでもなく中毒者にとって既に失われている(だから彼は飲んでいるのだ)。かつて大量のリビドーを備給していた対象を失った時、ひとは自らがつぎ込んだ心的エネルギーを時間をかけてひとつずつ引き剥がしてゆけねばならない。これがいわゆる「喪の作業」である。ところが喪の病的形態である「メランコリー」を患った者は、その対象を自分自身と「同一化」してしまう。つまり喪失した対象を自分のなかに取り込み、一旦行き場をなくしたリビドーをその内面化された対象に注ぎ込むのである。
 
おそらくドゥルーズの記述しているアルコール中毒は、このような一種の病的な喪であると考えていい。酩酊する中毒者は、失った恋人をファンタズマとして自分の心の中に呼び戻し、慈しむ。しかしそれはもはや私がこの手探りで愛撫する外界の他者ではなく、すべてがまるごと自分の内側に取り込まれているのだから、私とあなたの境界はまもなく消え去り、私は愛しつつ愛されていることになる。
この「融即〔participation〕の瞬間」(p.185)を表現するのが「過去分詞〔participe passé〕」であるとドゥルーズは言う――つまり"aimé"とは、かつて「愛した」事実であるとともにその愛における「愛された」ものでもあるわけだ。
 
ところがこの同一化ないし融即は決して実現しない(「彼は現実性との距離を保つことができる」)。「彼」は「愛された」ものである(il est aimé)ことはできない。彼は現在形において過去の対象であるのではなく、ただそれを「持っているavoir」のである――「現在の瞬間はavoirという動詞のそれであり、他方、全ての存在〔être〕は同時化された他の瞬間のなかで「過ぎ去って」いる」(p.185)。
中毒者が生きる現在と「イマジネールな過去」とのこうした「緊張」、それはしたがって「複合過去」である。即ち、「私は愛した」――"J'ai aimé"。
 
複合過去の同一化は決して現実を覆い隠す妄想に至ることはない。イマジネールな過去は「持つ」べきものとして私の手前にあるのであって、私自身は確かに今ここにいて飲んでいる。そしてその限り、たとえ現在のある瞬間が「水晶や花崗岩」のように「液状化したガラス」の過去を囲い込んでも、その幸せな二重の生の全体がそのまま永久にモニュメント化してしまうことはない。
つまり酩酊のさなかにも地続きの時間が現実に、常に流れ続けているのだ。
そこにこそ死の「硬い現在」と、中毒者における現在の「硬化」との違いがあるのだろう。「〔二重の生の〕この緊張はしかし、更なる別のもののために弛められる。なぜならそれは〔すぐさま〕「私は飲んだ〔j'ai-bu〕」へと生成する複合過去に属しているからだ。現在の瞬間はもはやアルコール効果の瞬間ではなく、効果の結果の瞬間である」(p.185)。
 
「私は飲んだ」――即ち「アルコール中毒抑鬱的局面」については、だいぶん長くなったので次回。
 
 
 

生きた心地――ドゥルーズ『意味の論理学』第22セリーに関する覚え書き(2)

一個の章(セリー)だけ読み返すのではどうしても理解があやふやになってしまう。けっこう自分なりに砕いたつもりだったけど、それでも解りにくい。
というわけで復習も兼ねてもう一度、まとめなおしておきたい。
 
人生を「崩壊の過程」と捉えるということ。それは個々バラバラに見える数々のアクシデントを、ひとつの一貫したプロセスのもとに包摂することを意味している。例えばそれらのアクシデントが生じるこの現実世界とは全く別の次元に、何かある「裂け目」のようなものがあって、それが少しずつ掘り深まってゆくのだと――そして各々のアクシデントはその裂け目のさまざまな「受肉」のあり方なのだと、考えることだ。
しかし、だからなんだというのだろう。「裂け目」ないし「純粋な出来事」などという抽象物をわざわざ設定したのは、騒々しく去来しながら少しずつ人生を蝕む事故事件の群れに、説明可能なまとまった意味を与えるというそれだけのためなのだろうか。だとしたらその仮説は、自分自身は安泰なままあれこれ理論をでっちあげるのを生業とする学者のほかに誰を喜ばせることになるというのか。
 
おそらくドゥルーズは、「裂け目」を単に頭で思考する(「抽象的な思考者」)のでも、それを受肉させ「実現」させてしまう(死、狂気etc.)のでもない途を開きたいのだ。出来事の純粋なままの(受肉しない)実現(「反実現contre-effectuation」)について彼は考えようとしている。そしてこのような反実現の担い手を示すのが、「役者acteur」という形象である――つまり出来事を被るのではなく、演じることができるのでなければならない。
 
アルコール(あるいは薬物)の使用はその可能性である。それらは抽象的なプロセスを辛うじて人称的な経験に結び付けはするが、死や狂気とは異なって、それら「二つの線を致命的な一点で混ぜ合わせてしまう」ことはなく、そこに一定の「時間」を費やすからだ(p.182)。
アルコール中毒の「時間」、それはどのようなものだろうか。
 
ドゥルーズによればアルコール中毒とは快楽の追求ではなく、「現実の硬化induration du présent」という効果effetの追求であるという。「硬い現在dur présent」という表現は、死の出来事が紛れもなく受肉し痛みをもって実現する瞬間を指すために用いられていた。しかし今回の「硬化」という言い方からは、そうした瞬間性よりもむしろ一定の時間幅をもったプロセス、というニュアンスが感じられるように見える。
 
そして事実、ドゥルーズは「致命的な一点」とはならないこの「硬化」において、「ひとは二つの異なる時間を同時に生きる」(p.184)のだと述べている。ひとつは酩酊している今現在、アルコールの効果が実現中の「現在」だ。しかしその現在は、柔らかい腫れものを囲む瘡蓋のように、ある別の瞬間、つまり「素面の生の記憶」を指し示す瞬間を「囲い込んでいる」。囲い込むentourerという言い方に注意しよう。つまり素面の生の瞬間は確かにかつて「現在」であり、そのものとしては「過去」になってしまったのだが「それでもやはり全く別の仕方で、根底的に変容したありさまで、硬化したdurci現在のなかに捉えられて、現存している」のである(p.184)。
 
したがって三つの時間を区別しなければならない――つまり
1.かつて現在であった素面の瞬間そのもの
2.今現在である酩酊の瞬間
3.酩酊の現在と「同時に」生きられる、変容した「素面の生」の記憶
である。そして2と3を同時に生きる中毒者の時間性を、ドゥルーズは「複合過去」という文法カテゴリによって特徴づけることになる。
疲れたので、次回に続く。
 
 
 
 

生きた心地――ドゥルーズ『意味の論理学』第22セリーに関する覚え書き(1)

ドゥルーズの『意味の論理学』を邦訳で読んだとき、飛び抜けて気に入ったのが第22セリーだった。
訳書での表題は忘れたけど元のタイトルは Porcelaine et volcan(陶器と火山)。
このセリーの主役は英国の作家ラウリーとアメリカの作家フィッツジェラルドだけど、どっちもあまり詳しくないのでその辺は触れないでおく。僕にとって最も面白いのは、そこでドゥルーズが展開するalcoolisme、即ち「アル中」についての論 である。
 
まずセリーの冒頭、ドゥルーズフィッツジェラルドの「どんな人生も、もちろん〔bien entendu〕解体の過程である」という命題を掲げる。
数々の「騒々しい偶発事」――戦争や破産、老い、病気、才能の枯渇など――が降りかかる。しかしそれらが(各々に傷跡を残しつつも)バラバラに、ただ通り過ぎてゆくだけだったとしたら、人生全体が「解体の過程」だとは言えないだろう。相次ぐ偶発事が一貫して少しずつ掘り深めてゆくもの、個々の災厄とは全く性質の異なった何かが存在していなければならない。ドゥルーズはそれを「沈黙した裂け目」と呼ぶ。
 
沈黙した裂け目は純粋な出来事とも言われる。「純粋」というのは受肉していないということ、つまり単に言葉の上のものに過ぎないということだ。出来事は定義上、何らか固有の時間的位置をもっていなければならないが、「純粋な」出来事は、時間のあくまで抽象的な直線上にポイントされるに留まる。ところで抽象的に考える限りの時間においては「現在」は存在しえない――各々の瞬間は(したがってそこに定位される出来事は)常に過去と未来に引き裂かれていて決して「ある(現在形)」とは言えないのだ。このような出来事が確固たる「現在」において「実現する」ためには、物理的なモノや身体に「受肉」する必要がある。
 
例として「死」という出来事を考えてみよう。前セリーにおいて、ドゥルーズブランショによる二つの死の区別を自身の議論に組み入れていた。一方には人称的な、つまり死ぬ主体に基礎を持つ「私が死ぬ」という死がある。しかし他方には非人称的で非肉体的な、「雨が降るil pleut」ように「死が降るil meurt」死がある――これが純粋な出来事としての死だ。
後者は「堅固な現在」における前者の人称的な死へと受肉し、実現する。とはいえ死はまさに当の人称自身の消去の経験なのだから、この場合それが実現する現在は、厳密な意味で「私」の経験に属するとは言えない。だから死の実現ないし受肉は基本的に欲求という形をとる――つまり自殺願望とは、それ自体としては掴みえないまま降り続く純粋な死を、全く個人的な行為によって我が身に引き継ごうとする企てなのである。
しかしここにきて、ドゥルーズは立ち止まる。二つの死の本質的な区別がそれでもなお存続すると主張するブランショ(とそれを援用しつつ理論を述べてきた自分自身)に対し、次のように問うのだ。
 

こうした本性上の区別は、抽象的な思考者のためでなければ誰のために存続するのか。〔…〕本性的に異なる二つの〔死の〕過程がある、そうなのかもしれない。だが〔…〕知恵と区別の忠告を与えてしまったら、抽象的な思考者がやることが他に何か残っているだろうか。岸辺に留まったまま、ブスケ疵、フィッツジェラルドとラウリーアルコール中毒ニーチェアルトー狂気について常に語り続けることか? それらの因果関係の専門家になることか? 心打たれた人たちがあんまり身を持ち崩しすぎないよう望むことか?〔…〕あるいは自分もほんのちょっとだけ顔を出して、裂け目を引き延ばすのには十分だがそれを取り返しのつかないほどに深めてしまうことはないという程度に、少しだけアル中になり、少しだけ狂い、なんちゃって自殺者、なんちゃってゲリラ兵になることか? 

(p.183-184)

 
結局、受肉のない純粋な出来事を身を以て経験することなどできないのではないか。決して身を持って経験しないことによって、それは頭のなかで思考されるだけのものなのではないか。しかしだとしたら我々には二つの道しか残されていないのだろうか――「ばかげたridicule」とまで言われる抽象的な思考者に留まるか、出来事を我が身に受肉して完全に死んで(あるいは狂って)しまうかの、どちらかなのだろうか。それでは「どちらを向いても、全てが悲しく見える」(p.184)のではないだろうか。
 
アルコール中毒のなかに、ドゥルーズはおそらくそうした困難への処方箋を期待しているのである。
続く。